登場人物はある病院の外科部副部長、そして交通事故で手術を要する怪我を負った息子の父親。
副部長の部屋に父親がやって来る。
息子は手術をすれば助かる、しかし父親は承諾書にはサインをしない。
なぜなら、その息子と父親の住む地域の信仰によって、「輸血をすることはいけないことだ」と教えられているからだ。
子どもの命を救いたい気持ちは同じなのに、まったく違う価値観の二人の男。
手術をすれば助かる、しかし出血が多く、このまま輸血をしなければ、もってもあと「90分」がいいところだ。
開演後すぐに、小さなスクリーンに文章が映し出される。
「この作品は事実を基に作られている、だが、特定の個人や団体、思想を批判するものでは、ない。」
輸血を拒む教義を持つ宗教や思想がこの世の中にはある。
その思想を批判する作品ではない、ということの前置きだ。
これほどまでにふたつの価値観がぶつかり合うことを皮を剥ぎ肉を削ぎ、舞台の上で芝居として見せられたことが衝撃的だった。
時に正論、時に詭弁、父親は「輸血をせずに息子を助けたい」と言う。医者は「輸血無しでは手術は出来ない、承諾書にサインが欲しい」と言う。
このふたつの意見と言うか、主張が観る者を定点において向こう側、こちら側、と360度回転して様々な姿をみせてくれた。
教義を破ることを恐れる父親の姿は実に敬虔だ。しかしその父親の姿は、周囲の目を怖れ、これまでの人生や生活を台無しにするような決断を恐れる臆病なものに転じたりする。
それは父親だけでない。
医師は、人の生命が何よりも重んじられるという信念を掲げる崇高な人物だが、その実書類不備で手術を行ってまで少年の命を救い、あとあと問題となることを恐れる狭小な面もあるのだ。
どちらも責める事は出来ない。
人は自分の都合だけを尊重したいにもかかわらず、自分がひとつ身体を動かすことで繋がる世界に多くの影響を与えるのは変えることが出来ないことだからだ。
誰かが笑う陰で誰かが泣いて、誰かの勝利は誰かの敗北の上に成り立つ。
二人の台詞はときに相手の意見を引用し、自分の主張へと変えていく。
その様も実に皮肉だった。
輸血無しでは手術は出来ない、何故輸血がいけないのか、他者の肉を自分の命を永らえるために取り込むことを良しとしないからだ、輸血用血液は食肉等と違い、それそのものは生きる人々の善意から作られるものだ、それでもその血の提供者が肉を食べていては同じことだ、しかし肉を食べる(消化器官へ取り込む)のと輸血をする(血液を血管へ送る)というのは根本的に同じではない、悪いものは何処から取り入れても悪いものだ(例として麻薬など)、輸血にも100%の安全はない、その危険があるのに輸血をさせるのか、手術に承諾書が必要なのは、医療行為の責任を取らないと言う逃げ道のためではないのか、教義の上では肉体の死は本当の死とは結びつかない、だからここで子どもが死ぬことは不幸とは言い切れない、まだ年端もいかない子どもの生が断ち切られるのは幸福なのか・・・。
これは覚えている限りで舞台の上でやり取りされた二人の意見の応酬。
お互いの意見を通すために、必死だった。
それは演技とは思えないほどの迫力。
舞台の上で西村雅彦は医者を、近藤芳正は父親という「登場人物」を演じたが、実際には二人はそれぞれが思う主張事態を具現化した形に見えた。
だから激しかった。
苛立ち、足掻きが時に滑稽に見えることもあったが、激しさは二人の意見がぶつかった時から終演まで何一つ変わらなかった。
この物語の主題は、命の重さでも、信仰の尊さでもないと思う。
ふたつの固い思いがぶつかった時、人はどのように決着をつけるのか、と言うことだと思った。
長い議論も空しく、少年の命は削れ、遂に危篤へと陥る終盤。
このストーリーに結末は訪れるのか、そんな気持ちで胸がいっぱいだった。
どちらも退くことが出来ない。退きしろのない議論。
その議論を打ち切ったのは医者だった。
書類不備の手術を決断することは、自らの人生の破滅に繋がる。
そこまではできない、と少年の手術の準備を中断させ、傷口を縫合しろと現場へ指示をした。
がやはり、少年の命が消えゆくのを無視することが出来なかった。
医者は、現場へ指示を出す。少年の手術を即行うようにと。
春からの教授職、新しい家の計画、医者の幸せは二度と手の中には戻らない。
なぜなら、少年の命を助けた事で、少年の両親らから書類不備で手術をしたことを訴えられるからだ。
信仰の自由をうたうこの国で、信仰を妨げるような勝手な行為を行った医者を責める為、また、未承諾で手術行為を行ったことを責めるため、裁判を起こされるからだ。
少年の命は救われるだろう。
しかし、幕は何とも重苦しい父親の言葉で閉じられることになる。
「私は、あなた(医者)が受話器をとるのが3秒遅かったら、承諾書にサインをしていました。息子の命を助けたいと言う気持ちが、3秒分あなたよりも足りなかった。私は息子を見るたびに、そのことを思い出すのでしょう。一生、死ぬまで、そして死んだあとも。」
例えば、誰かを論破しようと言う目的で議論を行うとする。
でもそれはきっと論破できたとしても、とてももろくつたない主張に違いない。
この舞台を観て、曲げることのない信念がぶつかった時、そこには決してハッピーエンドも笑顔も残らないのだな、と思った。
ただただ、ぶつかったという事実だけが残る。
本来なら、人や言葉がぶつかり合うのはこういうことなのだろう。
意見も主張もなく、妥協することが美徳の現代では、そのことを思い出す機会はあまり多くない。
ただ、個と個、違う個体が融合することなく生きるこの世の中は、本来ならばささくれ立った、厳しさを持った世界なんだな、と思った。
そして、意見よりも主張よりも、妥協し他の個を慮るなにがしかが、その厳しさに丸みを持たせているんだなと。
劇中、ずっと舞台中央に天井から水が流れていた。
それは時間の流れのようにも、時に少年の命のようにも、流れ出ていく血液のようにも感じられた。
三谷幸喜が、また演出・監督さんがどのような意図でもってこの演出をしたかは分からない(パンフレットを買いそびれた)。
だけど、白い部屋に長椅子の簡素な舞台、効果音も派手な照明もない舞台の上で、役者の演技を際立てる最小で最高の演出だったなぁと感じた。
一度だけ、この水の流れが途切れたシーンがあった。それは、少年が危篤に陥ったと現場から電話があった後。
進退窮した二人の議論、為す術も無く少年の命が消え去るだろうと思われるシーンだった。
客席は終演の気配を感じてじっと空気が凍りついた。
このまま少年は死ぬのか、いや医者が命を見捨てられなくて動くのか、はたまた父親が教義よりも息子の命を優先しサインをするのか・・・。
どのラストでもおかしくないストーリーの展開だっただけに、舞台もだが客席までも張り詰めていた。
医者が現場へ無承諾の手術の支持を電話で伝える。
その後また、舞台の上に水が流れ始めた。
カーテンコールの際、二人の演者から「水」へ向けて手が差し出された。
いつもいつも思うのは、舞台を観ることの楽しさを知ることができて本当に良かったということ。
90ミニッツのように鋭利な刃物のようにぐさりと内面をえぐる作品に出会えることは、幸せだなと思う。
でも舞台にはそんな作品ばかりではない、泣き笑い、感情を発露させるような作品も沢山ある。
次は2月にスパマロットと、青春漂流記。
今年もフルスロットルで舞台を追いかけたい。
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